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旭山・苗敷山 [甲府近郊]

2021/11/26(金)

■第449回 : 旭山(1037m)・苗敷山(1010m)


今回の行先は、山梨県韮崎市の旭山。古くは山岳信仰の場として知られた山で、山頂直下に724年の創建という歴史ある穂見神社が立派な社殿を構え、特に江戸時代頃には多くの参拝客で賑わっていたとされています。

現在は整備された登山道がなく、登山目的で足を運ぶのは余程の物好きなど少数に限られそうですが、往時の登拝路の名残を留める道が今も歩ける状況にあるらしく、信仰の篤い人が参詣で登ることもあるようです。

訪れる人も稀な山上に忽然と現れる穂見神社の奥宮。社殿は今もきちんと手入れされている様子だ。

 累積標高差(登り):697m / 距離:9.7km / 歩行時間:3時間10分 (休憩除く) 
標準タイムは不明(登山地図の収録範囲外) 

(往路)
古淵 05:26-05:48 八王子 05:51-05:58 高尾
高尾 06:15-08:02 韮崎 08:33-08:49(延発08:44-09:01) 竹の内

(登山行程)
竹の内バス停   09:05
穂見神社(里宮)  09:05-09:10
石鳥居      09:45
穂見神社(奥宮)  10:40-10:45
苗敷山      10:50
旭山       11:05-11:10
穂見神社(奥宮)  11:20-11:25
石鳥居      11:50
エーワン精密社前 12:10
御勅使南公園   12:25-13:00
御勅使バス停   13:10

(復路)
御勅使 13:25-14:01 甲府 14:16-15:10 八王子
八王子 15:21-15:44 古淵


大きなマップで見る(Googleが運営するFirebaseのサイトに遷移します。※上に埋め込んだマップも同サイト上のものです)

韮崎駅から市民バスに20分ほど揺られて、竹の内バス停で下車します(写真左端がバス停のポスト)。
バス停の横には穂見神社参道の大きな石柱と案内図が並んで立ち、案内図を見ると山上には奥宮のほか、宝生寺という別当寺の跡や宿坊跡など多くの建物も描かれていて、往時は大変栄えていたであろう様子が窺えます。
穂見神社の里宮はバス停のすぐそばにあって、参道を30秒も歩けば鳥居の前へ。もちろん寄っていきます。
まずは拝殿の前で手を合わせます。今日も無事に登って下りてこられますように。
見ておきたい物があったので拝殿の裏に回ると、それは本殿への渡り廊下の脇にありました(写真左下隅)。
木の根元に立て掛けられた石を良く見ると、「元禄四辛未歳」「苗敷山道初丁目」と刻まれているのが分かります。奥宮への参道には元禄4年(1691年)に丁石が整備されたとされていて、里宮がその起点だったようです。


参道に戻って集落の中を登っていき、ほどなく右に分かれる細道の先に防獣フェンスの扉が見えてくれば(写真の円内)、それが参道の続きの目印になっています。
細道に入ると、防獣フェンスの手前に「二丁目」の丁石がありました(写真右下隅)。パッと見では三丁目とも読める代物ですが、公的な調査で二丁目と判定(※)されていたりします。さっき初丁目を見たばかりですしね。
  ※なお「二」には線が浅く追刻されて「三丁目」のように判読できるが、三丁目丁石は別に存在するので二丁目であろう。
    [ 苗敷山総合学術調査報告書『苗敷山の総合研究』(2011年・韮崎市教育委員会発行)より転記 ]
それでは、フェンスの扉を開閉して、林の中へと延びていく道に入ります。
少しだけ林道を歩いたのち、ここを直進して山道へ。ここには道案内が何もなかったものの、林道のほうはここから先が工事関係者以外立入禁止でしたから、特に悩むこともありませんでした。
はじめは深くえぐれた道が続きます。昔から良く歩かれていたっぽいえぐれ具合から、このあたりは古い参道を歩けたのではとも思いましたが、でも丁石をしばらく見なくなったので、やっぱり付け変えられた道なのかも。
その後は尾根筋を進む地形図の破線路を右に分けて、尾根左側の斜面を進むようになります。その分岐にも道標等はなかったけれど、斜面を進む道のほうが明らかに明瞭で、どちらへ進むかはほとんど迷いませんでした。
トラバース状に登り続けていると、やがて前方を横切る林道が現れて、ここでその林道に突き当たりました。
林道に合わさった地点を振り返ると、登ってきた道の存在はほぼ分からず、下りだったら林道をそのまま進んでしまいそう。なのに、ここに道標はおろかテープ等の目印すらないということは、林道を下ったとしても全く問題がないことを意味しそうなので、恐らく先程見送った地形図の破線路がここに続いているものと思われます。
    ※下の写真にマウスを乗せると、道が合わさる様子を表示します。
そこからは林道歩きに変わります。このあたりは路面があまり荒れていない、割と歩きやすい林道でした。


ここで、左から上がってきた別の林道と合わさります(全区間まるまる往復になっては面白味に欠けるので、帰りはその道を下る予定)。古い記事の写真だとここに道標が立つ様子が見られるのに、今は何の道案内もなく、その残骸っぽさのある木片が見られるのみ。きっと道の手入れをする人もいなくなってしまったのでしょう。
そのすぐ先で、今度は登る方向が二手に分かれます。ここも一見道案内はなさそうですが、「火の用心」や「ゴミを捨てるな」といった看板が右寄りに立って、右の道が進路だと示しているようで、私も右へと進みます。
良く見ると、足元に倒れた道標があって、「石鳥居」「奥宮」と書かれた2つの指示標が右の道を示していました。とはいえ、これらがいつ来ても同じ方向を指して置かれている保証なんてなさそうですけれど。
ほどなく左手に石鳥居が現れました。てっきり下をくぐるものと思っていたら、道とは微妙にズレています。
なので、石鳥居の正面に立つには、ひとまず道から少し外れる必要がありました。今は林道が鳥居の右横を抜けているのに対して、かつての参道はこの下を通っていたのでしょうか。
その先で林道が一旦道形を失い、その先が草深くなるとともに、踏み跡も二手に分かれたので、双方の様子を窺ったところ、右は尾根に突き当たった先がやや不明瞭に見えて、左なら林道の続きがありそうな気配です。
ここでは、地形図の破線路が尾根筋を進んでいる一方で、先人の軌跡が一様にその尾根筋を左側から迂回しているのを事前に見ていたこともあって、左の道を進みました。ここが結果的にこの日進路で迷わされた唯一の箇所になっていて、下の写真は少し先まで進み、林道としての道形が再び明瞭になってきたあたりです。


その後しばらくは林道を追う形。古道の気配など微塵もなくて趣には難がありますが、歩きやすい区間でした。
途中にはZ字状の小さなジグザグが2箇所あります。写真は1箇所目のジグザグを上から振り返ったところ。
    ※下の写真にマウスを乗せると、ジグザグの道筋を表示します。
さらに進むと、今度は少し大きめのZ字状のジグザグが現れて‥‥
ここまで尾根から大きく外れていた林道が、尾根のすぐ近くに上がりました。地形図の796m標高点付近です。
ふいに草藪が進路に立ちはだかると、ここは中を突っ切る踏み跡しかなさそうだったので、強引に突破します。
すると草藪を抜けた直後にまた歩きやすい林道が復活したりして、先の展開が全く読めません。


久しぶりに道標が現れたら、ここからは林道を離れて山道を歩けるようになり、ようやく登山っぽい雰囲気に。
その先では丁石も久々に見掛けるようになって、ここには2つの丁石が接近して置かれていました。
手前側(上写真の黄色の円内)の丁石は、「廿丁目」、すなわち二十丁目です。そしておかしなことに、、
奥側(同じく橙色の円内)にあるのが「十九丁目」でした。順序が逆転していますから、少なくとも片方はここが元来の位置でないことが明白で、丁石があるからといって、ここも必ずしも古来の登拝路ではないのかも。
短い石段が現れたので登ってみると、そこには小さな平地があっただけ。でも下のバス停で見てきた案内図に、山上にいくつもの建物跡があることが描かれていましたから、そのどれかだったのかもしれません。
さらに進むと、ここには「二十一丁目」の丁石がありました。
時折丁石を見るようになったとはいえ、依然それ以外の道案内は何もなく、こんな標識でも見ると安心します。
かなり登ってきて、いつしか、れっきとした山道に。あまり古さを感じられないのは気のせいなのかどうか?
そして今度は「二十三丁目」の丁石を見ます(二十二丁目の丁石は所在が確認されていない模様)。
ここには「二十四丁目」の丁石(写真右端)とともに、ひときわ大きくて目立つ「西行歌碑」がありました。山麓に住み西行を尊敬した遠近庵引蝶なる俳人が建立したとされる歌碑で、天明7年(1787年)のものらしい。


やがて古い石段が現れて、さすがにこの先は元来の登拝路と同じ道筋なのが確実に(もう残り僅かだけれど)。
最初の短い石段を上がると、そこには「山門跡」の標識が立ち、奥にはさらに長めの石段が続いています。
苔生した石段は、どの石も角がすっかり丸まり、所々で歪んでいたりもして、経てきた年月の長さが窺えます。
もう一段上がるとそこは「隋神門跡」。茅葺の大きな建物だったらしく、建っていた頃を見てみたかった‥‥。
隋神門跡の先にあったのが最後の石段のようで、登り詰めた先に、いよいよ穂見神社の社殿が姿を現しました。
ここまでの道を振り返ると、昔ながらの登拝路が残っている箇所は限られていたようで、多くの箇所で林道などに付け替わっているもののその道も荒廃が進んで、すでに車両では通行できないような有様です。
それでも歩いて通る分には特段の困難も危険もなく、紛らわしい分岐など道迷いを起こす要因もほとんど見当たらなくて(道案内も最小限でされています)、思いのほか登り下りできてしまう状況でした。
そんな訳で、難易度が低~中程度とされるようなバリエーションルートの登山道がある山とさほど変わらない感覚で歩けたという印象です。


穂見神社の奥宮に到着。こんなに立派な建物が、普段は誰にも見られることなくひっそりと建っているなんて。
奥宮の社殿を右側から見た様子。本殿・渡殿・拝殿が一体化した権現造で、日光東照宮と同じ建築様式だとか。
今度は左側から。驚いたことに、元文元年(1736年)再建の社殿にはほとんど傷みが見られません。昭和28年に改修されたとありますが、それも70年近く前のことなので、余程その後の手入れも行き届いているのでしょう。
近くから見ると、かなり賑やかな装飾が細やかに施されており、隆盛を極めていたであろう往時が偲ばれます。
社殿の南側は小さな広場になっていて、西側から林道が延びてきていたので、車両で上がって来られるのかも。
周囲に広がるモミ林は山梨県の自然記念物に指定されています。でもこの看板の注目すべきポイントはそこではなく、添えられた地図で奥宮の背後にあるピークの標高が「1013.4」と細かく表記されていることで、次に向かう苗敷山の正確な標高(小数点以下まで明記したものはほかに見られない)を表している可能性があります。
※地形図と見比べると同じ地点を描いたと思えないほど等高線の位置が違っていて、信憑性に大いに疑念を挟む余地がある地図ではあるものの、国土地理院による最新の標高データ(航空測量による5mメッシュの数値標高モデル)における苗敷山付近の最高値も1014.0mと近く、標高値としての妥当性には問題がなさそう。


説明が前後しますが、奥宮の背後の高まりが「苗敷山」とされていて、このあとはそこを経由して旭山を目指します。奥宮の裏手が少し急な斜面だったので、広場のほうに少し歩いてから、写真左側の林の中に入りました。
なお、地形図に山名の記載があるのは三角点峰の旭山だけで、「苗敷山」とされる地点はそこから400mほどしか離れておらず、一般的には山名が別々に付くことがなさそうな近さです。さらに、苗敷山がさほど顕著なピークではないため、2地点を双耳峰とみなすにも無理があり、苗敷山を敢えて呼び分けるにしても、普通なら「旭山の肩」のような言い方がせいぜいな気がします。
しかし、前出の苗敷山総合学術調査報告書『苗敷山の総合研究』に、「地元では山頂部の鞍部によって旭山と苗敷山に区別されている」「地元での苗敷山に対する愛着は深く~(後略)」という記載が見られたことに加え、先人の記録もその多くが旭山と苗敷山を明確に区別していることから、この記録でもそれに倣い、苗敷山を個別の山として扱うことにしました。

さて、奥宮までの道はそこそこ歩かれていましたが、奥宮から先へ進んだ途端に道が消えてなくなりました。この先に足を踏み入れるなんて酔狂なピークハンターくらいですから通る人なんて稀でしょうし、どこでも自由に歩けそうな広い斜面ゆえに、ただでさえ少ない足跡も分散して、ハッキリした踏み跡が残らないのでしょう。
道がないため、苗敷山の高みを目指して適当に進むと、私製の山名標付きの樹木(写真中央)を発見します。
その山名標が少々問題ありの代物で、ここは地形図の1010m圏の等高線内ですから、まず標高が明らかに間違っていますし、苗敷山の最高点もここではなさそうで、何かと不正確。良く確かめずに設置したのでしょうか。
苗敷山の最高点付近は林道により南北に二分されていて、上の山名標の地点も南側の最高点にはなるようですが、国土地理院の標高データでは北側にもっと高い地点が見られます。そこで北側に向かうべく林道を横切ろうとすると、掘割状の林道に出入りする箇所だけは踏み跡が収束して、しっかりした道筋が付いていました。
苗敷山の最高点と思われる地点まで来ると、ここにも樹木に括られた私製の山名標がありました。
こちらの標識は、場所も標高もどちらも適切なようですし、この記録でもここを苗敷山としたいと思います。


苗敷山から旭山に向かって尾根筋を進む途中、伐採地に出たところで尾根筋が草藪(写真右端)で歩きにくくなると、この区間だけなぜかピンクテープが多数付けられて、草藪の境界あたりの道筋に誘導してくれました。
伐採地に出たことで西側の見通しが開けて、千頭星山と甘利山が眺められました。この奥にそびえる南アルプスの鳳凰三山が、これらの山に遮られてギリギリ見えていなかったようなのが残念でしたが‥‥。
    ※下の写真にマウスを乗せると、山名ガイドを表示します。
伐採地の北端まで進むと南側にも眺望が広がって、少し遠めに櫛形山が見えていました。
伐採地を抜ければ、再び人が入った気配を全く感じない山の中。踏み跡もテープ等の目印も一切見掛けません。
でも地形が単純だからか、ただ高い場所へと適当に歩いただけにしては、すんなりと目的の地点に到着です。
旭山の山頂は苗敷山と同じく樹林の中で、展望は皆無です。そこにあるのも三角点と私製の山名標だけでした。
私製の山名標は無意味に3種類もあって少々目障り。今後訪れる人はもう山名標を増やさないで頂きたい。


旭山からは、しばらくは来た道をそのまま引き返します。穂見神社の奥宮が見えてきたら、帰りはここから社殿裏手へのやや急な斜面を無理やり下りました。
奥宮からの石段を下り終え、山道に入ってすぐのあたりに、東側に開けた地点があって、富士山をはじめ御坂方面などの山並みを眺められました(ここは登る時には気付かずに通過していたようです)。
    ※下の写真は縮小版で、大きな写真(文字入れなし)は こちら です。
往路で細かく写真を撮りながら歩いたのが良かったのか、途中で曲がるべき地点の様子などがしっかり目に焼き付いていて、復路はいたって順調に歩くことができ、登った時の半分の時間で石鳥居まで下ってきました。
石鳥居の先の分岐点まで来たら、同じ道を往復するのはここまでとして、右に分かれる林道を下ってみます。
    ※下の写真にマウスを乗せると、道が分岐する様子を補足します。
あまり歩かれてなさそうな道にしては、道形は明瞭ですし、深くえぐれた様子から、作業道として盛んに使われていた(今も使われている?)道なのかもしれません。登山者が通るのは間違いなく稀なことでしょうけれど。
所々で洗堀が進んだ路面はガタガタで、車両での通行はもう無理そうでしたが、歩く分には問題ありません。
人里の気配が漂うあたりまで下って沢沿いに出ると、そこからの道は簡易舗装されていました。沢の上流には堰堤が見えたので(この写真にも一応写っています)、ここからはその工事用に使われた道にもなるのでしょう。
間もなく防獣フェンスが現れると、この扉は開閉部分が錠前で固定されていて開けられないのですが‥‥
事前にネットで得ていた情報通り、フェンス沿いに右へ進めば開閉可能な扉があって、そこから向こう側へ。
その後は工場の建物が並ぶ中を抜けて車道に出ました。建っていたのがエーワン精密という名前の機械工具メーカーの工場なので、この記録ではこの地点を「エーワン精密社前」と記載しています。


あとは車道を歩いてバス停へ向かいます。前方には金峰山をはじめ奥秩父や大菩薩連嶺あたりの山々が。
こちらは登ってきた山を振り返った写真で、旭山を撮ったつもりだったのに、カシミール3Dで確かめると旭山も苗敷山も麓からは山頂が見えていなかったようです(穂見神社奥宮のあたりが辛うじて見えているような)。
バス道路に出てすぐのところには県立北病院バス停があって、ここから来る時にも利用した韮崎市民バスで韮崎駅に行くことができますが、それよりも少し早く帰れるバス路線が別にあるので、もう少し歩くことに。
でもどちらのバスを利用するにせよ、小1時間ほど待たされるので、途中の御勅使南公園に寄っていきます。
時間調整には恰好のあずまやで、しばらくマッタリと過ごします。平日のお昼時、住宅街から離れた公園にはほとんど人がいなくて静か。人目を気にする必要がなくて、帰りの身支度なんかもここで済ませてしまいました。
あずまやの場所は眺めも良くて、あまり退屈せずに過ごせます。東を向けば富士山が。
南側に見えていたのは櫛形山。御勅使川の河原も草紅葉のようになっていて綺麗です。
再び登ってきた旭山を振り返ります。当然ここからも山頂が見えていなかったと知るのは帰宅後のことでした。
あずまやは居心地が良かった反面、トイレが御勅使川の対岸側(そこも同じ公園内だけど)にしかなくて、最後に少し余計に歩かされてしまいます。事前にもう少ししっかりとリサーチしておくべきでした。
御勅使バス停からは、山梨交通のバスで甲府駅へ。ほかの人を写したくないからと、十分な早さだと見込んで15分前に来てみたら、もうベンチには2人組の先客がいて、どうやら読みが甘かった様子。ちなみに、かつて芦安まで行っていた路線が御勅使折り返しに縮小された(2013年4月)ものですが、御勅使~甲府間は利用者がそれなりにあるようで、私が乗った便も平日の昼間にもかかわらず、席がかなり埋まる程度の乗客がありました。


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